金井弘應師の解説による密教の瞑想について

私と共に高野山で修行した金井弘應師による説明です。
密教の瞑想 阿字観

「阿字観」の「阿字」とは、大日如来の象徴です。もとはインドの古代の言葉であるパーリ語やサンスクリット語の言葉で、「あ」というのは、「何々でない」という否定の言葉です。そのパーリ語やサンスクリット語を表記する文字、デーヴァナーガリー文字を筆で書き表したものが「梵字」です。「あ」は、漢字では、「不、非、無、」と訳されます。
この「あ、阿字」の意味は、仏教でよく説かれる「空」の意味があります。「本不生」とも説明されます。阿字、空、本不生、の三つは、同じ意味です。
「本不生」について説明します。よくお唱えする般若心経には「不生不滅、不垢不浄、不増不減」というのが出てきます。また八宗の祖といわれる竜樹の『根本中頌』には、「不滅不生、不断不常、不一不異、不来不去」という八不が説かれます。真言宗の二大根本聖典である『金剛頂経』には「諸法の本は不生である」と説かれ、『大日経』には「我は本不生を悟り」と説かれます。この「不」という漢字に訳された否定辞が、インドの言葉では「あ」という言葉なのです。
では『金剛頂経』に説かれる「諸法の本」とは、何のことでしょうか。智慧第一といわれた舎利弗尊者が、まだお釈迦様に帰依する前に、お釈迦様に帰依するきっかけとなった有名な教えがあります。聡明な舎利弗尊者は、この一つの詩を聴いて、すぐにお釈迦様の教えを理解できたと伝説されています。この詩は「縁生偈」「法身偈」といわれています。

「原因によって生ずる所の諸法、それら〔諸法〕の原因を如来は説く。またそれらの滅をも。大沙門はこのような主張者である 。」(水野弘元訳)

私たちは、この世界を認識するとき、例えば眼が光を知覚して、物があるなと認識を生じる場合、光を原因として、眼が知覚をし、物があるという認識を生じるわけです。光が原因となって結果として認識が生じる。人が認識したり空想したりしたさまざまな概念を「諸法」といい、その認識の原因となった自然現象、眼に対する光などですが、この光が「諸法の本」ということになります。
この自然現象は、人が認識する前の状態のことですので、「先験的現象」ともいいます。仏教の用語では、「実相」といいます。この自然現象のありのままの様子は、常に変化していますし、人の感覚器官ではありのままをそのまま知覚することはできません。しかしまったく無いわけではなく、知覚原因となります。この変化していて人の感覚器官ではありのままに知覚できない先験的現象の様態を「空なる様態をしている」「空である」という言葉でギリギリのところを言い表します。素朴にものが有るという思い込みも間違いであるし、かといって何もないわけでもないので、有でもなく無でもないので「空」というわけです。そして人間の概念による言語では説明できないので、不生不滅、不増不減、不一不異、不来不去などと説き、「諸法の本は不生である」と説明し、さらに短くして「本不生」といい、「阿字」で象徴します。
この、先験的現象を原因として、認識が結果として生じる、この因果関係を「縁起生」といいます。「仏教は縁起を説く」といわれますが、仏教の縁起説とは、この縁起生のことなのです。ですから、阿字観をして正しく阿字を理解することは、そのまま仏教の神髄を正しく理解することになります。
では、阿字についてさらに理解を深めましょう。
私たちは、この世界を認識して、名前を付けて、実在すると思い込んでいます。お金や財産、好き嫌い、損得、勝ち負けにこだわって四苦八苦しています。しかしそれらの概念はすべて縁起生によって生じたものであり、概念に過ぎず幻想のようなものであり、無我です。
それに対して、この現象世界は、空なる様態をしており、生じたり滅したり、増えたり減ったりしていません。不生不滅、不増不減です。人間の知覚や日常の概念を遥かに超えています。強いて言葉で表現するなら、空なる様態をしているだろうと言えるだけです。この空なる様態をしているということをシンボルで表現したのが「阿字」であり、阿字を観想することで、現象世界に思いを廻らし、すべては空である、諸行は無常である、諸法は無我であるということを心の底から理解できるように修習します。これが阿字観です。
素朴に、私たちが認識しているようには世界は存在しない、私たちの認識は縁起生によって生じている。本当の姿というものもなければ、本当の姿を知覚できるということもない、すべては無常である「諸行無常」、人間の概念は幻想のようなものである「諸法無我」、さらには、時間が流れている空間が広がっているという感覚さえも、実は人間の頭の中で作られた概念に過ぎず、縁起生であることを理解する。阿字に思い慣れることで、あらゆる概念による束縛や煩悩から自由になり、生老病死を克服し、すべての生き物の幸せを祈り慈悲を生きる。これが阿字観の目的であり、密教の修行であり、お釈迦様の教えである、ということです。